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京都のキリシタン遺跡探訪 EC

京都のキリシタン遺跡探訪

今から約400年前、日本では宣教師によりキリスト教が布教され、時の権力者がキリスト教を弾圧していました。京都に残るキリシタンの遺跡を訪ね、歴史を学んでみませんか。

キリスト教を布教する南蛮寺と礼拝堂

ザビエルによって日本にキリスト教が伝わったのは天文18年(1549年)。京都にもキリスト教の礼拝堂や、教会にあたる南蛮寺が建立されました。織田信長の保護によりキリスト教は広まっていきますが、豊臣秀吉のバテレン追放令や徳川幕府の禁教令によって礼拝堂や南蛮寺は破却され、今は痕跡を留めるのみです。

南蛮寺跡
信長やキリシタン大名の寄進を受け天正4年(1576年)に建立された南蛮寺は、和風3階建ての壮麗なものだったという。跡地から発掘された礎石等が同志社大学に保管されている。
慶長天主堂跡地
慶長9年(1604年)に建てられた天主堂教会の跡。慶長17年には焼き払われたが、天主堂があったことにちなみ付近一帯はだいうす町と呼ばれていたという(「だいうす」はデウス〈天主〉がなまった言い方)。
殉教の悲しい歴史

キリスト教が弾圧される中でも、布教の勢いは止まらず、京都にも多くの信者が存在しました。しかし禁教令に伴い多くの信者が捕らえられ、棄教を拒み処刑されました。バテレン追放令により宣教師ら26人が京都から長崎へ送られ、処刑された「二十六聖人の殉教」は歴史的に有名です。京都でも元和5年(1619年)に60人以上が火あぶりに。これは京都における最大のキリシタン弾圧とされています。

二十六聖人発祥の地
秀吉によりフランシスコ会の神父が招かれ妙満寺の跡地に教会が建てられた。後に秀吉は神父らを捕らえ、長崎で処刑(二十六聖人の殉教)。この付近もだいうす町と呼ばれていた。
一条戻り橋
二十六聖人は長崎へ送られる際に、一条戻り橋で耳を削がれたという。
元和キリシタン殉教の地
元和の大殉教の歴史を示す石碑。全員が一般の信徒であることや、妊婦や幼い子どもまで火あぶりになったことから、古代ローマのネロ皇帝にまさる残虐の所業と形容された。
キリシタン信仰の遺物

キリシタン遺物としてあげられるのが、キリシタン墓碑。京都市内で発見された墓碑はほとんどが江戸初期の慶長年間のもので、京都国立博物館などで保管されています。また、織部灯籠に彫られた像をマリア像や宣教師像に見立ててキリシタン灯籠と呼んだものも、桂離宮や大徳寺、北野天満宮で見ることができます。あくまで言い伝えの域を出ない墓碑や灯籠もありますが、弾圧下の敬虔な信仰の姿を思い起こさせる遺物です。

地蔵院(椿寺)
長い弾圧の期間にキリシタン墓地のほとんどは破壊されたが、墓碑がいくばくか残っている。北区の地蔵院(椿寺)にも、キリシタン墓碑と伝わる石がある。
北野天満宮
北野天満宮のキリシタン灯籠。織部灯籠を隠れキリシタンの礼拝物とする説は具体的な根拠がなく、研究家も否定している。

基本情報

  • 施設名
    南蛮寺跡
    住所
    京都市中京区蛸薬師通室町西入姥柳町
  • 施設名
    慶長天主堂跡地
    住所
    京都市上京区元誓願寺通油小路西南角
  • 施設名
    二十六聖人発祥の地
    住所
    京都市下京区岩上通綾小路東北角
  • 施設名
    一条戻り橋
    住所
    京都市上京区堀川一条
  • 施設名
    元和キリシタン殉教の地
    住所
    京都市東山区川端通正面上ル
  • 寺社名
    地蔵院(椿寺)
    住所
    京都市北区大将軍川端町2
    電話番号
    075-461-1263
  • 寺社名
    北野天満宮
    住所
    京都市上京区馬喰町
    電話番号
    075-461-0005
    URL
    http://www.kitanotenmangu.or.jp/

この記事を書いた人

にっしー
音楽と文学をこよなく愛する関西人。母なる琵琶湖のほとりで生まれ育ち、京都に移り住んで十数年。バス停で困っている修学旅行生に道案内をするのが趣味。