京都府の南部、奈良県との府県境に位置する木津川市には、今からおよそ1300年前に都がありました。謎のベールに包まれた都の跡を訪ね、往時の姿に思いをはせてみましょう。
幻の都・恭仁京
奈良の平城京に都があった天平12年(740)10月、聖武天皇は伊賀や伊勢、美濃、近江などへ行幸し、同年の12月に木津川岸辺の瓶原(みかのはら)の恭仁宮で遷都を宣言し、恭仁京が誕生しました。平城京から大極殿や朝堂院を移築し、都が整備されましたが、天平16年には難波宮(なにわのみや)へ遷都。さらに翌年には平城京へ都が戻されました。都であったのは足かけ5年ほど、いまだに謎の多い恭仁京は、幻の都と呼ばれています。
礎石に往時の姿をとどめる
恭仁宮の造営は5年ほどかけて行われたとされていますが、難波宮への遷都に伴い、恭仁宮の大極殿は山城国分寺に施入され、金堂として使用されました。さらに七重塔や鎮守社も整備され、長らく寺院として栄えたようです。これにより、全国的に見ても珍しい、2つの重要遺跡が複合した史跡となりました。現在は、恭仁小学校の北側に大極殿の基壇を見ることができるほか、隣接した土地には山城国分寺の礎石が残り、往時の姿を今に伝えています。
和歌に詠まれた瓶原
恭仁京のあった瓶原は、歌枕として数多くの和歌に詠まれてきました。中でも有名なのは、百人一首にも収録されている藤原兼輔の歌「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」です。また、万葉集には恭仁宮を意味する「布当(ふたぎ)の宮」や「みかの原の新都」など、恭仁京を詠んだ歌が見られます。かつて泉川と呼ばれていた木津川にかかる恭仁大橋の両岸には歌碑が建てられ、この地が和歌のテーマとして多く取り入れられてきたことを伝えています。