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応仁の乱ゆかりの地めぐりEC

応仁の乱から550年 ゆかりの地めぐり

応仁の乱勃発から今年(2017年)で550年。被害があまりに大きかったことから、京都では、先の戦争といえば応仁の乱を指すという俗説があるほどです。都を焼け野原にしたという戦乱の、ゆかりの地を歩いてみましょう。

応仁の乱はここから始まった

応仁の乱は、室町幕府の将軍家や管領の家督相続を巡って起こった戦乱です。畠山政長と義就の相続争いから始まった御霊神社の森での合戦が初戦となり、11年に及ぶ応仁の乱が勃発。足利義視を擁し細川勝元率いる東軍と、足利義尚を擁し山名宗全率いる西軍が激しく争い、京都の街を焼き尽くしたといわれています。

応仁の乱勃発地(上御霊神社前)
上御霊神社(正式名称は御霊神社)には応仁の乱勃発の地を示す碑が建つ。文正2年(1467)正月17日に畠山政長がここに布陣し、翌朝には義就が攻め込んで、終日戦闘が続いたという。
応仁の乱の戦場を訪ねる

1467年3月、年号は応仁に改まります。細川氏と山名氏がそれぞれ軍を整え、5月には両軍の陣が布かれた上京を中心に、全面的な戦闘が開始。南禅寺近辺や相国寺、船岡山などでも大規模な合戦が繰り広げられました。細川勝元と山名宗全がそれぞれ病没した後も戦乱は続きましたが、文明9年(1477)に両陣営が引き下がることで乱は終結。以後、室町幕府は衰退の途をたどります。

百々橋礎石
応仁の乱の戦地として歴史に名をとどめる、百々橋があった地を示す礎石。南北に流れる小(こ)川にかかる橋を挟んで東西両軍がにらみ合い、激しい戦闘が行われたという。
船岡山(応仁永正戦場跡)
都と地方の出入口である七口の争奪選も激化。長坂口につながる船岡山も要所となり、西軍が城塞を築いた。山頂部の平削面や山内の堀跡は城の痕跡だという。
東陣と西陣

細川勝元は、花の御所とも呼ばれた室町第(足利将軍家の邸宅)を中心に、御構(おんかまえ)という陣地を築き、土塁や堀で周囲を防衛しました。一方、山名宗全は自身の邸宅を中心に布陣。西軍の陣地となった一帯が、西陣と呼ばれるようになりました。戦乱の爪痕は目に見える形ではあまり残っていませんが、地名や社寺の歴史からうかがい知ることができます。

足利将軍室町第跡(花の御所)
花の御所があった地は「東陣」。近年、この東陣が注目され、東陣について学ぶ催しなどが開催されている。花の御所については、この室町第跡のほか、上御霊神社や、尼門跡寺院の大聖寺にも石碑があり、広大さが感じられる。
山名宗全旧跡
山名町という町名にその名を留める、山名宗全の邸宅跡。ここが西陣の中心地だ。
西陣の碑(京都市考古資料館前)
京都市考古資料館前の西陣の碑。もともと一帯は平安時代に織部司(おりべのつかさ)がおかれ、中世にはその流れを汲む大舎人座(おおとねりざ)が機業に携わっていた。応仁の乱で織工は一時疎開していたが、乱が終結した後に再び戻り、織工業を再興。西陣織の産地として栄え、現代に至っている。

基本情報

  • 施設名
    応仁の乱勃発地(上御霊神社前)
    住所
    京都市上京区上御霊竪町
  • 施設名
    百々橋礎石
    住所
    京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町
  • 施設名
    船岡山(応仁永正戦場跡)
    住所
    京都市北区紫野北舟岡町
  • 寺社名
    足利将軍室町第跡(花の御所)
    住所
    京都市上京区室町通今出川上ル東側
  • 施設名
    山名宗全旧跡
    住所
    京都市上京区堀川通上立売下ル一筋目西入北側
  • 施設名
    西陣の碑(京都市考古資料館前)
    住所
    京都市上京区今出川通大宮東入北側

この記事を書いた人

にっしー
音楽と文学をこよなく愛する関西人。母なる琵琶湖のほとりで生まれ育ち、京都に移り住んで十数年。バス停で困っている修学旅行生に道案内をするのが趣味。