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藤原道長ゆかりの地EC

藤原道長ゆかりの地を訪ねる

藤原道長が望月の歌を詠んでから、2018年11月で1000年が経ちました。欠けているものがないと豪語するほどの栄華を極めた道長のゆかりの地を訪ね歩いてみましょう。

栄華を極めた藤原道長

平安中期の公卿である藤原道長(966~1027)は、藤原兼家の五男。右大臣、左大臣の位に就き、3代にわたる天皇のもとに娘を入内させるなど、天皇家の外戚として権勢を極めました。晩年は摂政の位や藤原氏長者の立場を嫡男の頼通に譲り、後に出家。法成寺(ほうじょうじ)の建立に心血を注ぎました。豪放な性格だったと伝わり、『大鏡』にはその性格を表すさまざまなエピソードが収録されています。

法成寺跡(藤原道長ゆかりの地)
道長は法成寺の阿弥陀堂で念仏を唱えながら、最期を迎えたという。法成寺は、後に2度の火災に見舞われ廃絶した。高校のグラウンドに面して石碑が建つ。
望月の歌が詠まれた土御門第

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

道長が3人の娘を入内させ、得意の絶頂の中で詠まれたという望月の歌。この歌が詠まれたのは、寛仁2年(1018年)10月16日。土御門第で催された月見の宴でのことでした。土御門第は、現在の京都御苑の界隈に当たりますが、駒札がその存在を示すのみです。往時の壮麗な御殿や華やかな宴に思いを馳せてみましょう。

土御門第跡(藤原道長ゆかりの地)
藤原北家の邸宅で、道長も住んだ土御門第。道長の長女で、一条天皇の后である彰子は、この土御門第で後一条天皇や後朱雀天皇を産んだ。仙洞御所近くに駒札が残る。
仏教に深く帰依した道長

栄華を極め、自分に足りないものはないと豪語した道長は、仏教に深く帰依していました。40の賀に際しては、藤原氏の氏寺であった法性寺(ほっしょうじ)の境内に、丈六の五大明王を安置する壮麗な五大堂を建立。度重なる罹災で法性寺は焼失し、五大明王のうち不動明王だけが現存しています。不動明王は東福寺塔頭の同聚院に安置され、じゅうまん不動と呼び親しまれています。

法性寺1(藤原道長ゆかりの地)
現在の法性寺は、明治維新以降に旧名を継いで再興されたもの。本堂の千手観世音菩薩(国宝)は、旧法性寺潅頂堂の本尊と伝わる。
法性寺2(藤原道長ゆかりの地)
法性寺五大堂の跡地に建つ同聚院。五大明王のうち、唯一残った不動明王を安置する。
同聚院(藤原道長ゆかりの地)
同聚院の本堂。じゅうまんは十と万、土と力を一つにした字だとされる。じゅうまん不動は仏師定朝の父である康尚の作で、忿怒相(ふんぬそう)の中に優美さが見られる。
同聚院 - 御朱印(藤原道長ゆかりの地)
書き置きの御朱印が用意されているので、参拝の証にいただこう。
商品名:「御朱印」各300円

基本情報

  • 施設名
    法成寺跡
    住所
    京都市上京区荒神口通寺町東入る北側
  • 施設名
    土御門第跡
    住所
    京都市上京区京都御苑内
  • 寺社名
    法性寺
    住所
    京都市東山区本町16丁目307
    電話番号
    075-541-8767
  • 寺社名
    同聚院
    住所
    京都市東山区本町15丁目799
    電話番号
    075-561-8821

この記事を書いた人

にっしー
音楽と文学をこよなく愛する関西人。母なる琵琶湖のほとりで生まれ育ち、京都に移り住んで十数年。バス停で困っている修学旅行生に道案内をするのが趣味。