今年は大政奉還から150年のメモリアルイヤー。京都は幕末の動乱の舞台となり、様々な人物が活躍しました。その中の一人、岩倉具視に注目し、ゆかりの地を巡ってみましょう。
大器の人物と言われた岩倉具視
岩倉具視は文政8年(1852)に、公卿・堀川康親の次男として京都で生まれました。儒学者に「大器の人物」と表され、その非凡な才を認められて13歳で岩倉具慶の養子に。断言をはばからない公家らしからぬ言動は「岩倉の切り口上」と呼ばれ、嫌われていたとも言われますが、抜群の才覚と行動力で、朝廷での地位を築きます。
蟄居を命ぜられ岩倉村へ
公武合体を推し進め、皇女和宮の降嫁に深く関与した具視は、尊王攘夷派から佐幕派と見なされます。尊王攘夷派が朝廷へ働きかけ、具視は失脚。辞官、出家を命じられ、蟄居することに。霊源寺や西芳寺に幽棲していましたが、さらに洛外追放の処分を受け、岩倉村へ。処分が解かれるまでの約5年間を、岩倉の地で過ごしました。
故郷・京都を愛した岩倉具視
洛中へ帰ることを許された具視は、王政復古に尽力。天皇と共に東京へ赴いた後は、新政府の中心人物として活躍します。その一方で、遷都により京都が衰退することを憂い、京都を復興させようと、『京都皇宮保存に関する意見書』をまとめました。具視は京都で視察を行いますが、志半ばで病に倒れ東京へ戻り、治療の甲斐なく明治16年(1883)に死去。具視の死後、様々な京都再生計画が実現しました。