豊臣秀吉が築いた聚楽第は、天正15年(1587)に完成しましたが、わずか8年で完全に破却されました。夢まぼろしのように儚く消えてしまった聚楽第跡をたずね歩いてみましょう。
絢爛豪華だった聚楽第
聚楽第は、平安京の跡地に建てられた政庁兼住宅。本丸と南二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸の内郭と、外堀に囲まれた外郭で構成され、聚楽城とも呼ばれます。金箔を貼った瓦を葺いた、絢爛豪華な建物だったそうです。豊臣秀次が失脚した後、その居城であった聚楽第は秀吉によって完全に破却。聚楽第は長らく謎に包まれていましたが、近年の発掘調査で堀の跡が見つかり、その姿が浮かび上がってきました。
地形で感じる聚楽第
聚楽第があったと考えられているエリアを歩いていると、起伏が多いことが分かります。ずっと平坦な道が続いているのに、突然現れる謎の坂道。この起伏は、聚楽第の堀跡と考えられています。北ノ丸北堀跡や西外堀跡、南外堀跡は一見して分かるほどの傾斜です。城郭の名残が感じられる道をそぞろ歩いてみましょう。
地名で感じる聚楽第
秀吉は聚楽第を中心にして、大名屋敷を整備しました。今でもこのエリアには、黒田如水ゆかりの如水町や宇喜多秀家ゆかりの浮田町など、大名屋敷ゆかりの地名が多く残っています。また、本丸東堀に由来する東堀町や、庭園に由来する須浜町、石垣に使った石材に由来する鏡石町など聚楽第にちなむ地名も残り、姿はなくともその存在を今に伝えています。地図を片手に散策して、聚楽第の姿を感じてみましょう。