平安時代末期、権力を握って横暴な政治を行なったといわれる平家を倒すための密談が行われた鹿ケ谷の山荘。歴史に残る事件のあった場所の、現在を訪ねてみましょう。
哲学の道から霊鑑寺、瑞光院へ
椿で名高い名刹、霊感寺(通常は非公開)。その山門わきの道端には、「此奥 俊寛山荘地」と刻まれた小さな石碑が立っています。急な坂道を登っていくと、唐から帰国する空海を暴風雨から守った波切不動明王をまつる瑞光院が現れます。
三井寺へと続く古道「如意越え」
瑞光院を過ぎると、杉木立の山道に入ります。「俊寛僧都旧跡道」と刻まれた石碑や、「京都一周トレイル」の標識が立っているので、ルートを確認しましょう。
この山道は「如意越え」と呼ばれる古道で、霊鑑寺から園城寺(現在の三井寺)へと続いています。かつてこの地に園城寺の別院である如意寺という大きな山岳寺院がありましたが、応仁の乱により焼失しました。
未遂に終わったクーデター? それとも平家の罠?
1177年、後白河法皇やその近臣が鹿ケ谷にあった俊寛の山荘(別人の山荘という説も)に集まり、打倒平家の密談を行いました。しかしメンバーの一人が密告。後白河法皇を除いた中心人物たちは処刑、あるいは流罪となり、俊寛も薩摩の鬼界ヶ島へ流罪に。後世「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれる事件です。
翌年、俊寛と共に鬼界ヶ島へ共に流された2人は大赦となり、都から迎えの船が訪れました。しかし俊寛だけは許されず、船にすがりつくものの無情に振り払われ、のちに自ら食を断って亡くなりました。俊寛の悲劇は「平家物語」をはじめ能「俊寛」、人形浄瑠璃や歌舞伎「平家女護島」などに描かれています。
鹿ケ谷の陰謀については諸説があります。クーデターそのものが、後白河法皇の側近を失脚させるための平家の罠であったという説もありますが、真相は藪の中。