多くの人が行き交う嵐山渡月橋の傍らに立つ、「琴きき橋」と刻まれた石碑。この石碑には、ある恋物語が伝えられています。美しい名前の橋に秘められた古の恋物語に思いをはせ、渡月橋や東山の清閑寺を散策しました。
宮中でもっとも美しいといわれた琴の名手
平安時代末期、高倉天皇は葵の前という身分の低い少女を愛し、人々の噂となりました。後世まで非難されることを恐れた高倉天皇は葵の前を遠ざけ、失意のうちに里に帰った葵の前は数日後に病気で亡くなってしまいます。高倉天皇の正妻にあたる中宮徳子(のちの建礼門院)は、悲嘆にくれる夫を慰めようと、自分に仕えていた小督(こごう)という女房を会わせました。
美しい小督は、高倉天皇の寵愛を一心に受けました。これを聞いてひどく怒ったのが中宮徳子の父、平清盛です。娘が皇子を産んで、天皇の外祖父になる日を心待ちにしていた清盛は、小督を殺してしまえとまで言ったとか。清盛の怒りが高倉天皇にも及ぶことを恐れた小督は、人知れず宮中を去りました。
陰暦の十五夜、高倉天皇は源仲国に小督を探すよう命じて手紙を託しました。唯一の手がかりは「嵯峨の片折戸の家にいる」という噂。探しあぐねた仲国が法輪寺に向かって馬を進めると、かすかに琴の音がきこえました。橋のそばで馬をとめてしばし聴き入ると、小督の爪音に相違ありません。
仲国は、琴の音に合わせて横笛を吹きました。明日にでも大原へ発ち、出家しようと考えていた小督。仲国は高倉天皇からの文を渡して説得を重ね、なんとか小督を宮中へ連れ帰ったのです。
東山のふもとで寄り添うように眠る
高倉天皇と小督は、ひそかに逢瀬を重ねました。正妻の中宮徳子よりも早く、小督は高倉天皇の娘を出産。ついに中宮徳子の父、平清盛の知るところとなりました。清盛の怒りに触れた小督は、1179年に東山の清閑寺にて出家させられました。
愛する小督と引き裂かれ、父の後白河法皇と舅の平清盛の政治的対立など治世の混乱にも心を痛めていた高倉天皇。中宮徳子の皇子が数えの3歳で即位して安徳天皇となった翌年の1181年、病によって21歳の若さで亡くなりました。
小督のその後については諸説ありますが、清閑寺で高倉天皇の菩提を弔いながら静かに余生を送ったといわれています。高倉天皇陵の傍らには、小督の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。ふたりは誰にも阻まれず、寄り添うように眠っています。