平安時代、人々は来世での極楽往生を願いましたが、女性は業が深いため往生できないと考えられていました。女性たちを受け入れ、その魂を救ったお寺は「女人往生の寺」と呼ばれ、今も女性に篤く信仰されています。
男女の分け隔てなく救われることを伝える「さかれんげ」 安養寺
古来、往生するさいに心のなかで男性は上向き、女性は下向きに蓮の花を咲かせるため、女性は往生できないと言われていました。安養寺の本尊、阿弥陀如来は台座の蓮華が下を向き、逆さまに咲いています。これは女性も救済するためで全国的にも珍しく、安養寺は「逆蓮華寺(さかれんげじ)」とも呼ばれています。
起源は、平安時代に恵心僧都が大和の当麻(たいま)に建立した華台院。恵心僧都とは、『源氏物語 宇治十帖』で薫君と匂宮に愛されて悩み、宇治川に入水した浮舟を助ける「横川の僧都」のモデルといわれています。恵心僧都の妹、安養尼が後を継いで安養寺と改名しました。
娘をなくした和泉式部が48日間念仏を唱え続けた 誓願寺
六角広場の近くにある誓願寺は清少納言、和泉式部、秀吉の側室松の丸殿(京極竜子)が深く帰依した女人往生のお寺。「洛陽六阿弥陀めぐり」の第六番です。
恋の歌で知られる和泉式部は、娘に先立たれた苦しみからの救済を求めて播磨の性空上人や石清水八幡宮をたずね、誓願寺の阿弥陀如来を礼拝するようお告げを受けました。
誓願寺に籠もって48日間念仏を唱え続けた和泉式部の夢に、老尼が現れて言いました。
「南無阿弥陀仏と唱えれば、女性も極楽へ往生できるのです」
和泉式部は、出家を決意しました。
出家した和泉式部の庵 誠心院
髪を落として出家した和泉式部は、誓願寺のそばにあった法成寺東北院内に小御堂という庵を結びました。これが現在の誠心院。誓願寺に日参するほかは日夜「南無阿弥陀仏」と唱え続け、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて浄土へ往生したと伝えられています。
かつて和泉式部が仕えていた上東門院彰子が、父の藤原道長に勧めて東北寺誠心院を建立。和泉式部の法名「誠心院智貞専意法尼」にちなんで、「誠心院」と名付けられました。
境内には、江戸時代に描かれた「和泉式部縁起絵巻」の絵画部分が展示されていて、和泉式部の足跡と思いをたどることができます。
繁華街の新京極に、お寺が多いのはなぜ?
かつて都の最東端に東京極(ひがしきょうごく)、最西端には西京極という大路がありましたが、豊臣秀吉が関白になると市中の寺院を東京極に集めて「寺町通」としました。
明治初頭、幕末の兵火や遷都でさびれた京都を活気づけようと、寺町通の東側に造られた繁華街が新京極。そのため現在も、新京極に多くのお寺が隣接しているのです。