本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、備中高松からの「中国大返し」で弔い合戦の一番乗りを果たした羽柴秀吉。ふたりが対峙した「山崎の合戦」の行方を、淀川の対岸から見守っていた人たちの逸話が伝えられています。
「洞ヶ峠を決め込む」のルーツ
京都と大阪の境にあり、古くから戦略上重要な地であった洞ヶ峠。山崎の合戦で光秀に助けを乞われた大和郡山の筒井順慶が、有利な方に味方しようと合戦を眺めていた場所と伝えられています。この故事から、日和見することを「洞ヶ峠を決めこむ」というようになりました。
筒井順慶は光秀に恩義があり、ふたりは姻戚関係を結んでいました。本能寺の変のあと、順慶の援軍を期待した光秀は、家臣を郡山に遣わし、自らも洞ヶ峠まで出陣して順慶を待ちました。しかし評定を重ねた順慶は、秀吉方につくことを決意。郡山城で籠城の準備を進め、実際に兵を動かすことはありませんでした。
まぼろしの峠
かつての洞ヶ峠は、京都と高野山を結ぶ旧街道のひとつ「東高野街道」にありました。しかし切通しによる道路開発などで地形がすっかり変わり、いまや地名を残すのみとなっています。
「湯だくさん茶くれん寺」の名づけ親
京阪橋本駅前に「湯澤山茶久蓮寺跡」と刻まれた碑があります。このお寺は、江戸時代に焼失した常徳寺。山崎の合戦に先がけて秀吉と光秀、両方の使者に「戦いがすんだら弁当を食べたいから、茶をわかしておいてくれ」と頼まれ、どちらの頼みを聞けばいいのか迷った挙句、とりあえず湯だけ沸かしたと伝えられています。
戦を終えた秀吉は常徳寺を訪ね、「この寺は湯をたくさんくれるが、茶は出してくれん。これからは『湯澤山茶久蓮寺』と名乗るがよい」と言ったとか。寺はその通りに改名し、秀吉は田地300石を寄進したと伝えられています。
「湯澤山茶久蓮寺」は、道を挟んだ向かいに現存する西遊寺だという説もあります。「秀吉公が山崎合戦の折 この地に立寄りお茶を所望したところ 湯ばかり沢山出したので『湯澤山茶久蓮寺』といった」と、八幡市郷土史会の案内板にありました。
「山崎の合戦」前後の話ではありませんが、豊臣秀吉の「湯澤山茶久蓮寺」伝説が残る寺は、京都市内や姫路にもあります。さすが太閤さん、さまざまな所で楽しいエピソードを生み出していたのですね。